頭がダメなら しっぽから攻めるのです。

朝、テレビを流しながら洗濯物を干しているとセヴァン・スズキさんが出ていた。
あの12歳の頃のセヴァンさんの国連会議での伝説のスピーチは、思い出して時々見るようにしている。恐ろしいほど心に忍び込んで会議に集う大人たちが凍り付いて後に温まった あの様は何度見ても涙が溢れてきます。うろ覚えですがスピーチの中で大人たちに訴えるのです。「鮭がいなくなった川に鮭を戻す方法を知っていますか?絶滅してしまった動物をまた甦らせる方法を知っていますか?どうやって直せばいいかわからないものを壊すのは、もうヤメてください」と訴えるのです。

1992年、環境サミット セヴァン・スズキ スピーチ
http://www.youtube.com/watch?v=C2g473JWAEg

このスピーチを初めて見たときは、知識や経験ではないと確信したのです。
たぶん僕らの国では充分エコロジーについてのイメージは伝わっているはずだけど、経済を引っ張って行く大きな企業は、なかなか踏み出せずに怯えているように思う。これじゃあ、いくら知識があろうともそれは知っているだけであって、何も学んでいないと言うことになる。「とりあえず、大学に行っておくか」的なノリが蔓延しているというか、情報は知っておきたいだけで、学んでいるとは思えない。

地球は常に厳しい。僕らが優しくしようが関係ない。今僕らが取り組んでいるのは、環境保護じゃなく向こう25年ほどの人間生活圏保護でしかない。エコを節約と言う言葉でごまかしてしまった。そうしなければ、商売ができないからである。「これを買えば地球に優しい」なんて言うぼんやりとした感覚は余計にナチュラルに自然に見えてしまうから厄介なんだ。

経済成長とエコが比例する形は僕にはイメージできない。
いつも反比例であると思っていて、その矛盾に悩んでしまいます。それに頭のいい経済人もそう思っているはずです。でも、経済が中心な社会の中で生きて来た人間にとっては、まず、この社会を大切に思ってしまうのは当たり前でしょう。地球の中に社会があるなんてイメージを常に持ちながら生きている人なんて なかなかいないでしょうし、砂浜で海の向こうの湾曲した地平線を見てやっと地球を感じたり、森の中でやっと自然を感じたりするくらいで、ほとんどは社会に翻弄される生活。

地球があって海があって陸があって自然があって国があって街があって僕の家がある。玄関のドアを開けたら そこはもう社会なんてそんな淋しいことは言いなさんな、社会を通して地球を見たり、社会を通して自然を見たり、社会を通して自分を見たりするのは、たまにはヤメた方がいい。自分の中にある誰とも接触していない心ですべてのものとの関係を確認する必要がある。あなたと私の関係、自然と私の関係、地球と私の関係、宇宙と私の関係、政治と私、経済と私、人と私、生と私、死と私、その間には一切 誰も立ち入れない関係を考える。人間関係や今の社会の倫理感を方程式に考えたり、優等生の回答をマネしても、自分の体も心も付いてこない、ただ、いい子ちゃんでいたいだけだ。周りの目を気にしない本当の自分の考えが腹の底から沸いて来たとき、いろんな問題と自分との関係も浮き彫りになる。例えば、環境問題に関して「私は なんとも思わない」と沸いて来たのなら、それを風(世間)にさらすべきなんだ。それで風当たりを感じたり、その考えが風に冷やされたりすると、また新しい本当の自分の考えに行き着くように思うのです。そこまで考えても、「やっぱり私はそんな問題よりも大事なものがある」と言えるなら、それは尊重すべき考えかもしれないです。でも、考えもしないで、いい子ちゃんでいようなんてのは、国の目的や価値感が変わるとき、今まで歩いて来た道は自分の道じゃないことに気付くかも知れない。だから、外向きに誠実にいるよりも、自分自身に誠実にいる方がとても難しくとても価値あることだと思うのです。そこに真剣に考える糸口があるように思うのです。

他人との約束を取り付けるより先に、自分との約束が必要なのかも知れない。
それが出来たとき、無条件に勇気が沸いて来る気がするのです。僕は僕と約束したのだから絶対にこの約束を守らなければいけないんだ。と、大声で なかなか言えないが、ベッドの中でいつもそう つぶやいている。




セヴァンさんは幻滅していた。12歳のとき、このスピーチで何か動き出す予感を感じていたらしいが、30歳になった今も状況はまったく動かないことに嘆いていた。国連などで代表に話をするのではなく、その逆の小さなコミュニティーから行動をすることにしたそうです。頭がダメならしっぽから攻めるのです。
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by hisa_coff | 2010-10-11 18:49 | デイリー