暗闇に名前をつけました。夜と言いましょう。

哲学は、疑うこと。宗教は、信じること。
と、2つを切り離す人がいたり、片方を批判する人がいる。
疑うことが学問になり得るかと考えて見れば、
哲学が疑うこととは、言いがかりだと言うこともわかる。
哲学も信じることだと僕は思っています。
もちろん宗教の神を信じることとは違うんでしょうけども、
自分自身をとことん信じるにはもってこいです。

自分が存在する前にあるこの世に疑問を持って、
誰も言い当てられないこの世の誕生から概念からたくさんのことについて
考え尽くせば、自分の存在が少しずつわかりやすくなってゆく。
人間とは?宇宙とは?生命とは?生とは?死とは?時間とは?空間とは?
善とは?悪とは?神とは?意志とは?言葉とは?数字とは?丸とは?四角とは?
頭がおかしくなるほどたくさんのことについて疑ってみれば、必ず見えてくるものがある。

人間だけの間(社会)で作り上げた概念の中で成り立っているものがほとんどで、
本当は何なのかわからないものだらけで ふとした時に猛烈な不安に襲われる。
昨日書いた、泥棒に怯える甥っ子の話もそうだけど、
死の恐怖もリアルに感じていなくても何かを感じ取って恐怖心が芽生えているのだ。

僕がなぜ甥っ子にナイフを持たずナイフを持った泥棒に立ち向えと言ったのか、
なぜ、6歳の子にむきになってしまったか、今日なんとなくわかった。
「怪物と闘う者は、その過程で自分も怪物にならないように気を付けなくてはならん。
深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらをのぞいている」と言うニーチェですが、
悪だと思い込んで滅ぼそうとする時、こちらの行為こそが悪にすり替わっている場合もある。
いくらわかり切った悪であっても、取り込まれないよう気を付けなければならん。
実際に社会の中で善悪が存在しても、地球や宇宙に善悪があるかどうか・・・。
哲学的なことを考えて学べることは、もともと意味もなかったものに
意味を持たし何とか不思議を解決しようと生きる人間の怯えた姿が見えてくる。

暗闇に名前をつけました。夜と言いましょう。
あの明るいものに名前をつけました。太陽と言いましょう。
これは水と言いましょう。ここから上は空と言いましょう。
暗闇が20000回ほどやってきました、隣にいた人が動かなくなりました。
僕らはだいたい夜が20000回ほどで動かなくなってしまうんだ。
などと歴史の中でやっと見えてきたものばかりで、
とりあえず仮説を立てて生きてゆかなければ、何もまとまってゆかない。
まとまってゆけば安心して生きてゆけるが、
本当はもの凄い不思議の中で生きていることを忘れちゃいけないんだと思える。

一度、たくさんのものを裸にしてみれば、
自分がその一部であり、自分の全てこの心身こそ不思議なんだと思える。
そこで、デカルトの言葉を思い出せばいい。
「我思う ゆえに我あり」
自分は一体なんなんだ?と疑ったとき、その疑いをかけている自分は疑えない。
自分は何なのか?疑っている自分がそこに立っている。
だから自分を見失った時は、自分探しの旅なんて行かなくても、
自分は一体なんなんだ?と強く思えば思うほど、そこに強く存在するのだ。



おやすみなさい。
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by hisa_coff | 2011-02-04 02:15 | デイリー